2025年9月1日午前11時21分 79年の生涯を終える
1999年6月妻53歳の時、近くの脳神経外科でパーキンソン病と宣告された。それから2か月後にこれも近くのA病院の脳神経内科のI先生に看てもらうようになった。そのころI先生は某大学病院の教授をされていて、大学時代の同級生が開業しているA病院を手伝っていらっしゃった。その後I先生は定年で大学教授を辞められ、別の病院に二回ほど勤務されて、再びA病院に戻ってこられた。その間25年間妻はI先生について回った。2024年暮れにI先生もご高齢になり体調を崩され、仕方なくI先生に紹介されたM病院のO先生に主治医を変更することになった。2025年3月に初めてO先生に看てもらった。O先生はI先生の教え子だった。2025年4月と6月の二回妻はMoriの都合でこのM病院に4,5日のレスパイト入院をした。2025年7月8日妻が通っているデイサービスのスタッフからMoriの携帯に「奥さんが入浴で足を洗っているとき、腰が痛いと言っています。どうしましょうか?」とかかってきた。Moriは「少し様子を見ていてください、時々痛がることがありますから」と返事をした。妻は予定通り夕方デイサービスの車で送られ、いつものように道から玄関に通じる数段の階段をスタッフの手を借りながら上り家の車椅子に座った。その時はあまりいたがりもしないのでMoriは「やれやれ」と思った。
翌朝いつものようにMoriの作った朝食を食べながら、「やはり腰が痛い」と言う。もともと7月11日から三度目のレスパイト入院を予定していたので、入院の用意をしてM病院に行き整形外科の診察を受けた。「脊柱の圧迫骨折です。1,2か月の入院治療が必要です。」「今回は整形外科での入院になります」仕方ないMoriは脳神経内科の方がいいと思ったが、同じ病院なのでO先生と連携を取りながら治療してくださるとのことで、そのまま入院させた。
入院第一目の翌朝、朝一に飲む錠剤(メネシット:ドーパミン剤)をノドに詰まらせ窒息しかけたとのことで、その日からそれまで何年間も一日8錠飲んでいたものを急に朝昼晩の3錠に減らされた。もともとこのメネシットでようやく毎日の生活がやった出来ていたのにである。ベッドでの生活とは言え、食事すら飲み込めない状態で、点滴だけに頼る状態となった。Moriは昼ご飯の時だけでも様子を見たいので面会することを申し込んでみたが、面会はあくまで午後1時から5時までの間の15分間だけです。とかたくなに受け入れてもらえない。
そうこうしているうちに妻の体力は見る見る衰えていく。娘の家族が遠くから見舞いに来てくれた。娘は妻を見るなり「このままでは長くない。即刻病院を変えるべき」と。翌日(8月4日)医師に面会し、即日退院させ、家に連れ帰った。Moriは別の病院入院の手はずも整えた。今度の病院は妻の母親が入院し、97歳で息を引き取ったところであり、当時担当していただいたFせんせいがおられたので主治医をお願いした。
家に連れ帰って、一休みベッドに寝かせた。目が覚めたのでMoriはいつものようにメネシットを飲ませた。妻はいつものように薬を飲み込めた。それから薬の効いてきたのを確かめ、娘が妻の好きなアイスクリームを用意したら、妻は自分でスプーンで1カップ全部ぺろりと食べた。病院を退院する時Moriは昼食の立ち合いが許されて妻の薬の服用と食事の様子を見ることができたが、その時妻は薬も食事もほとんど喉を通らなかった。だから家で食べられたのに帰って驚いた。さらに夕食時も同じようにMoriは薬を飲ませ、妻の大好物の鰻どんぶり(ご飯は柔らかいお粥だが) を用意した。本当は土用の丑の日に食べようと用意していた冷凍焼き鰻だったが。小さな茶碗におかゆを半分入れ、その上に湯煎した鰻の皮を剥いて乗せて出す。妻はおいしそうにこれも難なく全部食べてくれた。翌朝の別病院への再入院をどうするか、少し待った方がいいのではと娘が言う。
翌朝、薬を昔の処方に戻して飲ませ、朝食を食べる。妻の大好きな西瓜を細かく刻んで出す。妻は一口二口は食べたが、そのあとのどに詰まらせた。Moriは慌てて吸引機を用意し、急いで吸引した。なかなかうまく取れない。やっとのことで取れ、妻の血中酸素濃度も回復した。これを見て、娘も当日(8月5日)入院を納得した。
転院先の病院でも、なかなか食事が思うように取れなく、やはり点滴に頼るよりなかった。妻も私ら家族も遺漏や鼻から管を通して薬や栄養剤を流し込むことはしないと決めていたのでその旨主治医には御願いしていた。妻は喉に唾液を詰まらせることが多くなり、吸引する回数が徐々に増えた。娘家族が再び見舞いにやって来た。その日は日曜日であった。主治医は休み。娘は唾液が詰まるのは点滴のせいだから、点滴を即中止してほしい。と看護師に訴えた。看護師は当直の医者に相談して、即点滴を中止した。8月24日の午後のことだった。
それから毎日Moriと娘の家族一同は見舞いに行った。確かに吸引はほとんどしなくなったが、口からの栄養も取れず、日に日に話も出来ないようになった。
9月1日の午前11時頃主治医から電話があった。「呼吸がだんだん弱くなってきている。至急立ち会ってください。」と。Moriは娘家族とは別に急いで病院へ駆けつけた。11時12,3分頃に病室へ。妻は弱々しく微かに息をしていた。それから5,6分後に娘家族一同が駆け付けた。そして2,3分もしないうちに完全に呼吸が止まった。主治医は脈をとり、瞳孔をライトで照らして検査し、静かに「11時21分お引き取りになりました。」と告げた。最後は苦しむこともなく天国へと召されていった。妻の26年間に及ぶパーキンソン病との戦いの終わりである。
もう苦しむこともない天国でゆっくり安らかにお過ごしあれ。アーメン