パーキンソン病の妻と介護する夫の日記

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Moriは伝説的なSE(その2)

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☆ SEトレイニーとしての研修

・ 1965年10月入社内定者の会食会があるので入社を希望する者は大阪の会場まで出席するようにとの案内が来た。moriはこの時自動車学校に通っていて、当日は最終の検定試験が実施される日と重なった。もちろん会食会の方を選ぶ。再度関西汽船で大阪との間を往復した。このころより会社から研修という名で月に一回程度、社内誌やコンピュータの機能解説書などが送られてくるようになった。社内誌は英語と日本語の二冊が送られてきたが、専門書はすべて英語のマニュアルだった。moriにはチンプンカンプンであったが、辞書を片手に勉強した。1966年3月28日より会社ガイダンスという名目で、北九州のとあるホテルで缶詰め研修があった。この時同じ営業所に所属する新入社員が5人いた。3人が機械保守を担当する要員(CE:Customor Enginer)で2人がSoftware関係を担当するSE(Systems Enginer)だった。moriは入社時の希望職種通りであった。だが、その当時SEの何たるかはほとんど理解できていなかった。

・ 4月に入ると早速新入社員研修が始まった。場所は大阪の順慶町にある同社の研修センターである。新入社員研修(ELT:Entrace Larning Taraining)は7段階が用意されていて、それぞれPhase-1,Phase-2,、、、Phase-7まであり、奇数Phaseが集合研修偶数Phaseがフィールド・トレーニングと言って先輩社員に同行して、お客様のところを訪問しながらの実地訓練であった。

・ Phase1は当時、まだまだ世間で使用されていた事務処理機械は、コンピュータではなく、パンチカードシステムが主流であった。そのため、PCDPのそれぞれの単機能マシーンのワイヤリングの勉強と実習であった。コントロールパネルという30~45Cm四方のアルミか何かの合金でできている板状のものにたくさんの穴が開けられたものに両端に差し込むための端子が付いたワイヤーを差し込んで処理を制御するプログラムを組み立てるものを毎日毎日行った。Entry Hub,Exit Hubという穴にワイヤーの端子を差し込む仕組みである。教室や、ホテルの壁や天井に同じよぅた穴があるボードが、その制御盤に見えね思わず頭の中でワイヤリングをしている自分に気づくことがしばしばであった。一種のノイローゼ症状であった。

・ Phase2は先輩の営業担当(Sales Represetative)についてお客さんや(Customer)見込み客(Prospect)を回った。相手をしてくださったお客様の方々は、たいてい部長さん以上の人たちで、新入社員のmoriにとって緊張の連続であった。

・ Phase3はまた集合研修で、今度はコンピュータの基本概念とプログラミング言語の習得が目標であった。コンピュータの歴史。中央演算処理装置(CPU)、周辺装置の説明などいわゆるハードウェアの勉強。ここで、学生時代に送られてきていた。機能解説書なるものの詳細説明があり、機械語の一つ一つの命令を理解させられた。次にプログラミングのやり方を学習。プログラミング言語について、FORTRAN、COBOL、アセンブラー言語の順に習った。moriはハードウェアの試験はまずまずであった。とにかく人生で一番試験勉強らしいものをやった。プログラミングの試験の最初がFORTRAN言語で金種表を作成せよ。という質問であった。カード一枚に6桁の数字で金額が穿孔されている。これを読んで金種の仕訳表を印刷せよ。ただしカード一枚の内容を一行に印刷し、カードがなくなるまで一ページに50行ずつ印刷せよ。各ページの最初には見出しを書くこと。云々・・金種とは万券、五千円券、千円券、五百円硬貨、百円硬貨、五十円硬貨、十円硬貨、五円硬貨、一円硬貨のことであり、答えは幾通りもあるが、一番少ない枚数で答えなさい。moriは必至でロジックを組み立て、自信をもってコーディングした。翌日結果が返された。もちろん機械を通したわけではなく、インストラクターの判断である。結果は”0点”だった。moriのロジックは正解例と完ぺきに一致していたのに、なぜ?  ただ、一か所忘れているものがあった。最初に必要な、DIMENSIONを書き忘れていたのである。三十数人いたとレイニーで”0点”を採ったのはmori一人であった。確かに機械にかけて翻訳させれば、コンパイルエラーとしてはじかれるが、その時DIMENSIONの定義漏れと指示が出る。それを付け加えるだけで、コンパイルOK実行すればちゃんと金種表が印刷される。プログラミングの難しさはそんな不注意によるものではないと思うが、仕方ない。moriのこれまでの人生で試験で零点をもらったのは、これが初めてで、最後である。

・ このPhaseの終盤、プログラミング演習が始まり、名古屋にある電算センターのコンピュータを使って実際のテストがあった。一人ひとり自分の書いたプログラムをカードに穿孔し、機械にかけて結果を印刷する簡単なプログラムであったが、初めてのことでありなかなかパスしない。何度か修正を加えながらもなんとか正しい結果が印刷された時の感激は五十数年たった今も覚えている。この時正しい結果ができたのは三十数人中わずか3人だけだった。これがmoriのその後の自信につながった。

・ その年の秋ごろには一人でお客様のところに出向いて、お客様の電算要員の方へのプログラミング研修の講師をやらされた。その後の研修も無事に終わり、一年半にわたる新入社員研修の卒業式は入社の翌年の11月はじめであった。研修期間の成績のトップ(東京、大阪の研修センターでの)二人が表彰され記念に金時計が授与された。moriは惜しくもそれに外れた。(自分ではひそかに三番目だったと思っている)

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