パーキンソン病の妻と介護する夫の日記

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Moriが最近考えること

投稿日:

                 2013年11月9日

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☆ 2013.11.09の随筆であるが今も考えは変わらない

  • 善と偽善

「善」とは、そもそも何なのか?

“真の善とはただひとつあるのみである。すなわち真の善は自己を知ると言うに尽きる。われわれの真の自己は宇宙の本体である。真の自己を知ればすでに人類一般の善と合するばかりでなく宇宙の本体と融合し、神意と冥合する。”

「善」とは宇宙の本質である“神”が良しとする事。

“神が良しとすること”=“愛”=“善”

“愛”は自己愛も他人を愛することも“善”である。

   (西田幾多郎「善の研究」より)

“愛”=“やさしさ” 

“やさしさ”と同じようなものに“おもいやり”という言葉がある。

私は、“やさしさ”と“おもいやり”は少しニュアンスが違うような気がする。

“おもいやり”=“同情”にはどこか上から見下ろしたようなところが感じられるが、如何? ちなみに、広辞苑では同じ意味との解説がなされているが・・・なかなか日本語も難しい。

「善」の反対は“悪”である。

では、「偽善」とはいかなる事を言うのだろう?

文字通りでは“偽の善”“偽りの善”であろうが、それは“悪”では決して無い。

ただ、本心からの“善”ではなく“善を装ったうわべ(見せ掛け)の善”である。

10月6日の主日礼拝の説教の中で

  • あるミッション系の高校生へのアンケートのなかで教会での主日礼拝に参加してどのように感じたか?という問いかけに対して、ほとんどの学生が「偽善者の集団であり、今後二度と参加したくない」と答えたそうである。

何が“偽善”と見えるのか

10月18日の朝日新聞の「天声人語」で先日亡くなられた、“やなせたかし“さんがマンガ「アンパンマン」のなかで”この世の中に、絶対的な正義も無ければ絶対的な悪人もいない。だから、完全に悪人をやっつけることはしないんだ“と。

親鸞のことばとして「歎異抄」の中で“善人なほもって往生を遂ぐ。いはんや悪人おや。”というところがある。

 善人:自らの才能や能力によってこの世で悟りを開き、善根を積んで往生を期している人。一般的には、地位、教養、財産があり世間から尊敬される人を言う。

 悪人:迷い、悩み、苦しみをかさねながらも、ひたすらに生きるほか無い人を言う。

    社会的には「下類」とさげすまれていた猟師・商人・農民をいった。

“金持ちが天国に入るよりも、駱駝が針の穴を通る方がまだ易しい。”(マルコ10-25,マタイ19-24,ルカ18-25)

“父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らしてくださる。”(マタイ5-45)

本来“善”と“悪”とは一体か?

老子も“醜”があって“美”がある。“悪人”がいるから“善人”がわかる。“後ろ”があって“前”があるが、これらは皆同じ事を見方を変えた言い方に過ぎないと言う。

しからば、“偽善”も悪くないのでは?

  10月13日の主日礼拝説教

  • 「弟子たちは見ていた」

師を裏切った弟子、ピラト、キリストにかわり十字架を背負わされたシモンいずれが「善」を為したか?

    - 役職が「善」をなす妨げになったピラト

    - シモンの弟子たちへの応対、振る舞い(ごく自然な人間としての振る舞い)

    - 弟子の裏切り ・・・ 死を避ける人間本来の行動?

      裏切りせずに全員殺されていたら・・・キリスト教の今日はなかったかも?

=> 神は「裏切りを良しとした?」(神に対する「善」)

今年の3月中旬の朝日新聞「be」面の“悩みのるつぼ“という読者と回答者からなる欄に、”孫世代のために何ができますか?“という77歳の読者よりの問いかけに、経済学者の金子 勝さんが”吉野源三郎の言葉を噛みしめる時“と応えています。

吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」という本を引用しています。この本は日中戦争がはじまった1937年に「次の世代を担うべき大切な」少年少女を「時勢の悪い影響から守りたい」と書かれたものだそうです。

 私もいかなる本か早速Amazonで取り寄せ読みました。コペル君という13歳くらいの少年とその相談相手のおじさんの話が書かれています。少年は他の3人の同級生と仲良しになります。何かと行動を共にしています。彼らは何がおきても共に助け合うと固く約束しました。ある雪の日の出来事で上級生が作っておいた雪だるまを的にしたり盾にしたりしながら雪合戦に夢中になる4人。いつの間にか雪だるまは形を崩していました。そこに上級生の悪がき隊がやってきます。彼らは自分たちは正しく、その行動もいつも正しいと思っています。たるんでいる下級生に制裁を加えるのも立派な日本国民を作り上げるための正しい行動だと信じています。4人のなかの1人が特にこの連中に目を付けられていました。とにかくその子に鉄拳が襲い掛かります。「こいつの仲間はいないか?」そのときコペル君を除く2人は殴られた子にはせよりかばい、雪だまの的になりました。コペル君もそうしようと心の中では思いましたがどうしても怖くて出来ません。

「他にこいつらの仲間はいないか!」と叫ぶ悪がき。握り締めた雪だまをそっと後ろに回し手を離すコペル君。そう、コペル君は親愛なる仲間を裏切ったのです。

どこか、イエスを裏切った弟子たちのようです。

このことに悩むコペル君はしばらくの間学校へも行けなくなります。

そうこうする内にどしようもなくなり、いつも相談相手になってくれる伯父さんにこのことを打ち明けます。伯父さんは「いろいろ言い訳は言わずに正直に“裏切り”の詫びの手紙を書きたまえ」といいます。「ただし、それで許してくれるか仲間はずれにされるかは分からない」と付け加えます。結果は、皆は許してくれました。というより、そこまで彼らは深刻ではなく、反って、学校に来ないコペル君を心配してくれていたのでした。

伯父さんはコペル君にこう呼びかけます。「お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信をくみ出してゆこうではないか―――正しい道にしたがって歩いてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだ」と。

コペル君の母親も女学校のころ“重い荷物を持ったおばあさんが石段の坂をあえぎあえぎ上っているのを見ながら手伝おうとしても、どうしてもその勇気が出ず、つい横を通り抜けてしまった自分を今も、悔やんでいる”という話をします。

“善”とか“裏切り”の後悔とか・・・・

私は“善”を少しでも子孫に伝えることが出来ているだろうか?

これからの少ない人生何とかせねば・・・・

  10月12日の朝日新聞の「天声人語」より

  • 貧しい人々のために尽くしたマザー・テレサは美しい言葉を残した。心に残るものを1つだけ選べと言われたら、これを挙げたい。「私は、世界中に愛の手紙を書き送る神の手に握られた、小さな鉛筆です」

マザー・テレサはどこの国で生まれたかをインター・ネットで調べてみた。彼女はアルメニア人の親から現在のマケドニアで3人姉妹の末っ子として生まれていた。 その時「マザー・テレサの怖い素顔が明らかに!」「マザー・テレサの素顔はブラックだつた?」という見出しが私の目をとめた。(参考資料)カナダの研究者の論文だとか・・・

マザー・テレサほど無私・無欲で人種・宗教を問わず貧しい人の、困窮の人々に“善行”を施した人はいない。と、世界の人々が思っていると、私自身思っていたが、見方を変えると、世の中いろんなことを言う人もいるもんだ。

  • 宗教は何のためにあるのか、永遠の命とは

世界のいたるところで宗教・宗派の違いによる衝突・紛争・テロが絶えない。そもそも宗教は本来人間が平安に暮らし、安らかな人生を全うするためにある、と理解していたが・・

今や宗教が人心を惑わしている感を強く受ける。

私はつい「宗教は何故必要か」と思う。

またまた、西田幾多郎に言わせると、

「人智の未だ開けないときは人々はかえって宗教的であって、学問道徳の極致はまた宗教に入らねばならぬようになる。世には往々何故に宗教が必要であるかなどたずねる人がある。しかしかくのごとき問いは何ゆえに生きる必要があるかと同一である。宗教は己の生命を離れて存するのではない。その要求は生命そのものの要求である。かかる質問を発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。真摯に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはおられないのである。」

ぐうの音も出ない。

人間は何故に争うのか?

動物は生存競争、種族維持のために争っているようである。

集団の縄張り争い。行き着くところ種族保存のためか。

植物は種族保存のために争わないか? 植物もまた自分の種を増やすため、他の植物の隙を突くようにはびこる。

人間も弱肉強食の食物連鎖の頂点に居るようだ。 

そこまでは宇宙の摂理の中で理解できる。

ビックバン以来今の宇宙は膨張し続けているという。地球上の生物も宇宙の法則で増え続け、人類も今や70億もの生命個体を有し地球上にひしめき合っている。

ヒッグスは物質の元なのかどうだか分からないが、物質は融合と分裂を繰り返し、宇宙は膨張の末、収縮へと向かうという。

動物も、植物も生命体は増殖の一途をたどるはずも無い。宇宙の一員であるならば必ず、宇宙の法則に従わなければならない。

集団が出来ればそれは分裂する。

精子と卵子が合体し、途端に細胞分裂を繰り返し、一個のほぼ完成した固体として母体からこの世に現出する。その瞬間に“命”が与えられる。

細胞分裂は、何のエネルギーによってなされるのか?

生命を得て後“細胞分裂”はしなくなるのか?

細胞は死滅・再生を繰り返すが、小学生以来“細胞分裂”は胎児の時だけの特有な現象のように教わってきた。

その代わり、固体同士が集団を作り、集団は分裂を繰り返す。

1つの宗教が生まれ、分裂して宗派や、別の宗教集団が形成されてきた。

宗教は“思想”とは根源的には異なると考えるが、宗教・宗派は思想の違いを生じ、争いを巻き起こす。

私は“永遠の命”とは、“宇宙の命”のことだと思っている。したがって宇宙が続く限り、命は死滅しない。身体的(肉体的)生命は滅びるといえどもDNAは子孫に引き継がれる。然るに宇宙的真の命は肉体の誕生と共に肉体に宿り、その死とともに肉体を去る。植物は種子や胞子などの形で生命を引き継ぐ、動物もまた生殖細胞の形でひょっとすると生命を引き継いでいるのかも?原初の生命体から人間にいたるまで連綿と命を引き継いでいるのかもしれない。・・・ダーウイン的進化論で考えるならば。

万物はただ1つの或るものから生まれ今日に至っているのであるから、人間も又、宇宙の一員であり、宇宙の命を引き継いでいる。

  • 絶対の神は1つ

日本国憲法第20条「信教の自由の保障」

  1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。[1]
  2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
  3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

  信教の自由が憲法で保障されているのになぜ時により人は他宗教を邪教としたり、けなしたりするのか?

  「宗教に貴賎があるのか?」と思わされる。

  ある宗教を信じているひとは、それにより心の安寧を得ているのだと思う。

  だから、「他人がとやかく言うものではない。」と思う。

  10月24日の朝日新聞の「韓国人靖国合祀、二審も遺族敗訴」という記事の中で東京高裁は「信教の自由の保障は、信仰に基づく他者の行為に慣用であることを求めている。」と指摘。

10月20日の主日礼拝説教で、最近イギリスの教会がサーカスの用に使われたり、洗礼を受けて無くても、晩餐式でパンとぶどう酒に預かることが出来ることを許す教会がある。また、米国で神は信ずるが、宗教は持たない、いわゆる“None”という集団が増えている、といったお話を伺った。

  世界的に宗教ばなれ(特にここでは、キリスト教のことが言われていると思いますが)が進んでいるのか・・・

  宗教もまた宇宙の法則に従わないわけには行かないのか・・・

  「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の憂いあり。おごれるものは久しからず、盛者必衰の断りをあらわす。」(平家物語)か・・・

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同根なのに・・・争っている場合じゃないのでは・・・

  また、仏教も含め“絶対の神”は1つなのではないかと私は思っている。

  富士山の頂上に上る登山口は複数でも、頂上は1つのように。

  ユダヤ教、仏教(釈迦)、キリスト教(イエス)、イスラム教(ムハンマド:マホメッド)おおよそ600年の時間差だけではないか。人間の尺度で20世代程度のもの。

  経済学では“コンドラチェフの波”といっておおよそ50~60年周期で好況不況を繰り返す。何のことは無い。世代交代が原因ではないかと私は思う。

  個人企業は三代続けば大成功。“信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で大いなるものは愛である”(コリント13-13)

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