パーキンソン病の妻と介護する夫の日記

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Moriは伝説的なSE(その1)

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☆ Moriの生い立ち

・ 1944年1月(昭和19年) 九州のど真ん中の山奥の村に生まれた。後期戦中派の人間である。父方のご先祖は江戸時代九州で代々つないできたお抱え相撲取り(花月川、三隈山万次etc.)、母方のご先祖は瀬戸内海の海賊村上水軍の支流、河野水軍の末裔である。どちらの血を継いだとて、大したことはない。ただ、海賊の血を継いでいたことは、ある時台風一過の荒海をフェリーに乗って対馬へ旅行した時、大いに助かった。波高6~7メートルで船はへさきが沈んだり押し上げられたり。周りの海の水の方が甲板より高いように揺れていた。乗客のほとんどが、床に這いつくばり、船酔いでゲーコ・ゲーコと嘔吐していた。妻も、娘も例外ではなかった。でも、そんな中、moriは平気であった。

・ 父方のDNAはmoriにとってあまり良いとは思えない。兄はそれでも、中学生の時そこそこ体格が良く、相撲の代表として県体にも行った。moriの受けた血は肥満体質と、もって生まれた短足だけである。かの有名な短足倭人の武田鉄也とどっこいどっこいである。でも、moriのいいとこは、そのことに社会人になるまで気が付かなかったことである。それはそれで幸せなことである。

・ moriの母は背が低かったが、足の速い人だった。また、記憶力が人並外れて良かった。これはアスペルガー特有の能力でもある。ある昔の出来事を尋ねると、xx年○○月△△日の午後何時ごろのことであり、そこにはA,B,Cがいた。Aが・・・・と言い、Bが、、、と言い、CがAの味方をしていたなどと、つい先日のことのように言う。また、数字には色があり、数には特別な位置情報を持っており、らせん階段状に登っていく、など意味不明のことも言っていた。この母の血をmoriも少し引いている気がする。

☆ moriコンピュータ会社の学生セミナーに参加

・ 大学3年の3月あるコンピュータ会社の学生セミナー(現在のインターンシップのようなもの)の募集に応募。T君と二人で行くことになった。会場の大阪までは関西汽船の定期船で行くことにしていた。出発の当日T君に電話連絡を取ると「風邪を引いたようで熱がある。自分は参加を取りやめる。」と言う。田舎者のmoriは”T君が一緒だから安心して参加を決めたのに、一人で大丈夫だろうか”不安でしようがない。”でも、せっかくのチャンスだ。何とかなるだろう” と自分に言い聞かせ、一人で船に乗る。大阪天保山桟橋で下船。会社から指定されていたホテルにどうにかたどり着いた。春分の日も過ぎたころなのに北風が吹く寒い夕方だった。ホテルでの夕食も会社が用意してくれており、セミナーに参加した各方面から来た学生30人ばかりと、会社から派遣された社員4~5名の方と一緒に自己紹介を交えた会食であった。セミナーは翌日から三日間の日程で、同社の大阪の教育センターで行われる予定であった。ところが翌朝起きてホテルの窓から様子を見てびっくりした。あたり一面銀世界になっているではないか。それも、かなりの積雪である。ホテルで各々朝食をとっているとき、社員の方が来られ、「今日は研修センターで講習会の予定だったが、交通機関がこの大雪でストップしている。会社から講師がこちらのホテルまで来るとのこと。急遽ホテルの会議室が講習会場となった。

・ 1965年の春のことである。当時コンピュータは実用化されて間がなかった。moriの大学にあったのは電気会計機があったくらいで、どんなものか知らない。コンピュータともあまり言われてなかった。”電子計算組織”という言葉を講師の方が説明した。EDPS(Electronic Data Processing Systems)と呼ばれ、中央演算処理装置とそれに接続された各種の入出力装置から構成される。EDPSの出現前はPCDP(Punched Card Data Process)という紙カードにデータを穿孔し、そのカードデータを読み取って集計したり、結果を印刷したりするシステムが中心であった。PCDPは制御パネルにワイヤリングトすることにより処理手順を組み立てていたが、EDPSでは中央演算処理装置にプログラムを記憶し、そのプログラム命令で機械装置全体が制御される(Stored Program方式)。などなど、の説明を受けたが、文系のmoriにはあまりよく理解できなかった。

・ 二日目もホテルで今度はプログラミング言語なるものの講義を受けた。プログラミング言語ができる前は、機械語ですべてプログラムを直接書いていたらしい。それでは一般の人が広く使うことは難しいため、人間にも覚えやすい表現コード(mnemonic code)すなわち簡略記憶記号でプログラムを書くことになった。アセンブリー言語のプログラムは、ニーモニックによりコーディングされ、アセンブラーというプログラムで機械語に変換される。それによりコンビュタで実行可能なプログラムが作成される。そのほかにも当時、科学技術計算用の言語として”FORTRAN: Formula Translation)”や商業計算処理用の言語”COBOL:Comon Business Oriented Language”などの高級言語も考案されていた。

・ 三日目は初めて同社の計算センター兼デモルームの見学があった。すごいスピードでカードが読まれたり、磁気テープがくるくる回ったり、勢いよく印刷された紙が繰り出されたり、それは映画のシーンのようであった。

・ 最後に同社の会議室に集められ、何やら配られた。今までの講義に基づく試験かなと思ったがそうではない。それは適性検査(SE用かプログラマー用かはわからないが)であったらしい。久しぶりに知能テストみたいなものを受けた。そして自宅からの往復の交通費プラス三日間の日当手当までいただき、えらく感動したmoriであった。

☆ moriコンピュータ会社のSEとなる

・ 四年生になった五月就職試験が始まった。この年は前年に介開催された東京オリンピックの反動で経済が落ち込み、日本の大手企業は軒並み採用を手控えていた。都市銀行はじめ金融機関も例外ではなかった。前年までの引く手あまたと一変した。試験を受けた同級生たちのほとんどが第一志望の会社から断りの電報を受け取りがっかりしていた。moriも例外ではなかった。東京丸の内に本社があった大手電気機械製造会社H社の入試試験を受けに、はるばる東京まで寝台列車で出かけた。午前中筆記試験。午後面接があった。面接官は7~8人。moriはその多さにドギマギ。簡単な専門の経済のことを訊かれたが、必死で何とか答えてはみたが、何が何だか要領よく応えた自信はいまいちない。その受験の帰りに春に参加したコンピュータ会社を訪ね、人事課長に面会を求めた。同社は快くmoriの要求に応えてくれた。人事担当の部屋に通され、コーヒーを頂き、おまけに人事部長にも紹介された。一介の田舎の大学生にである。H社の入試の帰りも寝台列車に乗って帰った。日当はおろか交通費も出ない。おまけに、受験用にあつらえた革靴が朝食の弁当を買おうとしたとき見つからない。よく似た靴が片方ずつ取り違えられて残っていた。多分夜中に途中で下車したお客が間違えたのだろう。仕方なくmoriは終点で下車するとき不ぞろいの靴を履いて学生寮に帰った。

・ H社からの結果を待っていたが一週間後午前中に「申し訳ございませんが、当社では貴殿の意向に沿うことが出来かねます。今後の貴殿のご健勝をお祈りいたします。」という手紙が届いた。早い話が採用不可の知らせ。だが、その日の夕方例のコンピュータ会社から直接電話がかかってきた。「5月20日大阪で面接をするので来てほしい。」という連絡であった。第一志望のH社には落ちたが有り難いことにそりの日のうちに次の救いの手が支えてくれた。大阪まで出かけて、面接を北浜の商工会館で受けた。この時の面接官はたったの二人であり、一人は事務員のようで、質問をするのは一人だけ、その質問というのも、まったく学校での専門のことなど触れず、「SEの仕事は徹夜することもあるが、徹夜したことはありますか?」moriの応え「徹夜で勉強したことはありませんが、麻雀した経験はあります。」 次の質問は「お酒は飲めますか?お客さんとのつきあいもありますから。」moriの応え「あまり強くはありませんが、付き合い程度には飲めます。」今覚えている質問はこの二つだけだったような気がする。この時、面接だけだと聞いていたのに、面接の待ち時間に英語のペーパー試験があった。 例によって交通費と日当が支給された。

・ その日の夜出航の関西汽船に乗り、朝に帰り着いた。その翌日の夕方「採用内定す。」の電報が届いた。当日家庭教師のバイトの日であったが、合格した旨伝えて、同僚の友と飲みに出歩いた。

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