パーキンソン病の妻と介護する夫の日記

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初めての海外旅行

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☆ 金婚式を迎えて

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・ moriは25歳の秋に妻と結婚した。妻23歳であった。それから50年の歳月がたちお互い齢を重ねた。昨年(2019年)11月23日が金婚式であった。そのころ義母がいつとも知れない生命の淵を漂っていた。記念の旅行どころではなかった。一人娘もそのことを知ってか知らずか私らの金婚式のことに触れようともしなかった。その義母も12月25日聖誕日に天国へと召された。

・ moriが初めて海外に行ったのは結婚した翌年の26歳の時であった。会社のご褒美の海外旅行に招待たのである。1970年6月三泊四日のシンポジュームが台北で開催された。会社主催のシンポジュームであったが実際開催されたのは半日程度であり、あとはオプショナル観光で故宮博物館や太魯閣渓谷で現地のタイヤル族の少女たちのバンブーダンスを鑑賞したりの観光であった。夜は豪華なディナーパーティー。おいしいご馳走、現地の有名な歌手、や芸能の余興入りである。楽しいことこの上もない。しかも、すべて会社持ち。

・ 1970年当時はまだ外貨持ち出し制限があり、短期海外旅行の場合一人40USドルが限度であった。当時の日本円は対米ドル固定相場で360円/US1ドルであった。(変動相場に移行したのは1973年) 随って360 x 40 = 14,400 円分だけの米ドルしか持ち出せなかった。もちろん日本円はその制限はなかったと思う。moriも40米ドルと2,3万円持参した。当時のmoriの月給が5万円前後だったので、moriにとっては大金であった。第一次オイルショック前のことである。日中国交正常化前のことである。(1972年9月のこと。この直後台湾と日本は一時国交が途絶えた時期がある。)米ドルに交換したのは当時の東京銀行(現在の三菱UFJ)の支店であった。米ドルを手にしたのも初めてであった。台北では40ドルを節約しながら使った。峨眉街・成都路というところの喫茶店でビールの小瓶を頼んだら1本1ドル取られた。しかも、生暖かいビールであった。冷たいビールが飲めると思っていたので、「このビールは冷えてない。冷えたビールはないのか?」と訊くと、かち割氷を持ってきて、コップに入れた。そしてビールを注いだ。ビールのオンザロックである。moriも仕方なくそれを飲んだ。まあ冷たいだけましであるが氷が解け薄まったビールはいやはやなんとも言い難し。(当時盛んであった日本のビアガーデンの生ビール中ジョッキが一杯250円くらいだったので相当高いビールであった)

・ 観光バスで観光地に行けば、窓越しに「なんでも2ドラ。」「なんでも1,000円」と言って、土産物を売りに来る。珍しさもあって、いろいろ今から考えると何ともしょうもないものを結構買った。40ドルはあっという間になくなった。とある市内のデパートに買い物に行った時には買いたいものがドルが少し足らずに買えなかった。店員の中年の女性にそのことを言うと(当時の台湾の人はまだまだ日本語が上手であった)いい「 日本円でいい」という。一ドル400円だという。仕方なくそれでほしいものを買った。当時の日本円がいかに信用がなかったかお分かりと思う。

・ 当時の台北の街は高層ビルがあちこちで建てられていた。moriらが泊まったホテルは当時の台北で1,2を争う高級ホテル・国賓大飯店(アンバサダー・ホテル)も30階建てくらいあった。ちなみに日本では当時浜松町ビルが一番高かった。ところがである、台北ではそれら高層ビルの建築現場の足場がすべて竹で組まれていた。器用なものであるとともにあんなに高くまで竹のみでくみ上げて大丈夫なのか地と心配ではあったが、すでにかなりの実績を積んでいるので、そこそこ安全なのだろう。当時の日本では既に足場はすべて鉄パイプで組まれていた。

・ その後あちこちとと多くの国々を訪れたが、あれから50年以上たった今日まで再び台湾を訪れたことはない。動けるうちにもう一度台湾に行ってその後の変わり様を見たいものである。

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