パーキンソン病の妻と介護する夫の日記

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パーキンソン病の発症

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〇 左足が何か変

一人っ子の娘が結婚し横浜で新しい家庭を持った1998年の秋のとある日、散歩の途中で妻は「左足に力が入らない。何か変」と異常を訴えてきた。どこか筋か膝関節に悪いところがあるのかも知れない。翌日午前中近くに開業して間もない整形外科クリニックへ行った。レントゲンを撮り、診察の結果は何も異状は認められない。立ちづくめの仕事か何かで足も疲れているのでしょう。と言って、湿布薬を出してくださった。そのころ、妻はある写真館のバートで働いていた。確かに立ちづくめの毎日であり、それが原因かもしれないと、すぐに納得した。

〇 娘夫婦との韓国旅行

翌年の五月、ゴールデンウイークが明けたころ、娘夫婦を誘い、韓国旅行に出かけた。守は何度も韓国へは行っていた。勝手知った釜山の焼肉レストランでマッコリーを飲みながら食事しているとき娘は母親の左手先が微かに小刻みに震えているのを目ざとく見つけた。守に」「あんたは気づかなかったの?」聞いてきた。実は、守も前年の左足の一件の頃からそのことには気づいていた。

〇 電車の広告

帰国後2~3週間がたったころ、娘から電話があった。「今日何気なく電車の中の広告を眺めていたら、”手の小刻みな震えはパーキンソン病の前兆”と書いてあったよ。即刻脳神経内科か外科に見てもらうように」。翌日、これまた最近開業したばかりの脳神経外科を訪れた。(その頃の家の付近は宅地造成が盛んで、いろいろな病院が立て続けにかいぎょうしていた。) 1999年6月14日午前10時30分ころ、天の神様の声みたいに“これはパーキンソン病に間違いありません”との先生のお告げがあった。私たち二人もパーキンソン病のことは聞いてはいたし、不治の病だとも知っていた。まさに”天の神様の鉄槌”に頭をふいに殴られた感じである。先生はもう少し様子を見ましょう。すぐに入院の準備をして再び来るようにと言われた。家に帰り二人は暫し床にへたり込んだ。その病院には二週間ほど入院した。その間の妻の落ち込みはひどく元気を出させるため、後でパーキンソン病には絶対飲んではいけない薬まで処方された。

〇 順天堂大学病院へ

退院しても、どうにもパーキンソン病とは受け入れがたい。パーキンソン病では当時も今も最先端を行く順天堂大学病院で再度診断してもらおうと、上京した。これにも、娘も同伴してくれた。この分野では著名な望月教授の診断を期待したが、お弟子さんの診断だった。「間違いなく、パーキンソン病の初期段階です。」やっとあきらめがついた。診断書と最初にかかった病院の先生宛の手紙をもらって帰った。手紙には、パーキンソン病には絶対XX錠は使わないでください。と書かれていた。でも、最初の先生の名誉のためあえて言わせていただくと、あの時の落ち込みを救ってくれた”抗うつ剤”を処方してくださった先生に今も感謝している。

〇 あれから20年 I先生とともに

帰宅後まもなく、義母が通院していた眼科の病院で、むすめがパーキンソン病で落ち込んでいると話題にした。ところがその眼科医の先生がほんの近くにその道の大家の先生がおられます。すぐに言って見てもらいなさい。と言われたと帰ってきて知らせた。その病院に電話すると彼の先生は土曜日だけ来られます。とのこと。病院は当時住んでいた同じ町内、車で5分とかからないところにあった。この先生は当時まだ現役の大学病院の専門医をされていた。毒ガスやヒ素などの毒薬が専門であり、松本サリン事件やオウム・サリン、和歌山ヒ素カレー事件などの解明に活躍された。パーキンソン病にも日本でいち早く当時世界一の水準にあったカナダの某大学に留学され研さんされた方である。爾来20年、先生も病院を何回か変わられ、私たちも住居を移ったが、変わらぬお付き合いをさせていただいている。

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